

以前から紹介させていただいているグラさんのブログを読んで
特に犬の躾に関して、非常に問題があると個人的に感じた部分をピックアップ。
グラさんの記事
http://blog.livedoor.jp/nanakailua/archives/51224114.html 【訳されなかったカーミングシグナル】
トゥリッド・ルーガス(テゥーリッド・ルーガス、トゥーリッド・ルーガス)
の「カーミングシグナル」という本についてとりあげています。
原題:On Talking Terms with Dogs: Calming Signals
著者が「リーダーシップはいらない」と書いている部分を
訳出していないそうです。
~ブログより~(抜粋になりますので全文については上記リンク先をご参照下さい)
従来、犬育てにおいては、リーダーやボスになれなどと言われてきたが、こうした考え方こそが問題の原因である。
子犬時代には「安心、安全、忍耐と愛情」こそが必要なのだ。
それに続けて以下のような記述があるのだが、なぜか石綿美和氏が翻訳した『カーミングシグナル』からはこの1段落がすっぽりと抜けている。
「覚えておいていただきたいのは、オオカミの中で育ったオオカミの子は完璧なオオカミになり、犬の中で育った子犬は完璧な犬になるということである。
だが、われわれ人間が子犬を育てると問題が起こる。
いまや、リーダーシップを無用な神話とみなす時がきている。
犬たちが良い親であるように、われわれも犬たちの良い親になる必要があるのである」」(Calming Signals, p.71)。
リーダーシップはいらない、役に立たないとはっきり書いてある部分を訳出していないのである。
この部分は、ルーガスがもっとも強調したかった箇所ではないだろうか。
それを訳出しないとなると、著者の意図が十分に伝わらなくなるので、翻訳として非常に問題がある。
学術書でこれをやったら、ちょっと大変である。
そして最終章「私たちに与えられた選択肢」においても、リーダーシップに関する一文が抜けているのである。
2箇所も重なると意図的ではないかと勘ぐりたくなる。
著者はこう続ける。
「犬にリスペクトしてもらいたいなら、あなたも犬をリスペクトすべきである。良好な関係は双方向的なコミュニケーションの上に成り立っており、よくバランスのとれた共同性(石綿訳では一体性)の中で暮らすことである」
それに次の一文が続くのだが、それが石綿訳には欠落している。
「リーダーシップは何も解決しない。リーダーシップは、われわれの暮らしにおいても犬の暮らしにおいても、問題を生じさせるだけである。これはあなたの選択である(原文太字)」(Calming Signals, p.73)。
このように著者は読者に、リーダー論をとって犬の気持ちを無視し続けるのか、それとも犬を尊重し犬の気持ちに寄り添った接し方をするのか、という鋭い選択を突きつけているのだ。
したがってこの一文が欠落することにより、「どちらの立場に立つのか」という立場性がぼやけてしまう。
訳者はあえてそれを意図したのだろうか。
それはわからないが、意図的であるか否かにかかわりなく、翻訳が著者の真意を正確に伝えるものになっていないことに変わりはない。…とあります。
訳者はバイリンガルのトレーナーですが、なぜ訳さなかったのでしょうか?
出版社や所属団体の意向(圧力)でしょうか?
それともルーガスの言いたいことが理解できなかったのでしょうか?
(訳者はDINGOのインストラクターです)
問題は英語力でしょうか?国語力(理解力)でしょうか?
理由を知っている人がいたら教えて下さい。
こちらでも同じ問題があります。
【米国発】連載コラボ企画!
第二回目:犬のボディーランゲージ
http://bigtreeforanimals.org/column/know-the-dogs-vol2/転載はNGだそうなのでザックリ書きますが、
ここでもバイリンガルのトレーナー(寺口麻穂)さんが、
ルーガスのカーミングシグナルを取り上げていますが
(しかも原文で読んでいるようですが)、
虐待的躾で名高いシーザーミランのリーダーシップ論と一緒に語っています。
(ミランの躾の様子についてはこちら
http://blog.livedoor.jp/nanakailua/archives/51235960.html)
ルーガスの言いたいことを理解していないのは明らかですが、
ミランのリーダーシップ論に疑問を感じない時点で、
トレーナーとしてどうだろうか…と感じます。
(ルーガスはミランに批判的です)
犬のリーダー論や群れについてのグラさんの記事
【犬にお伺いを立てよう】
http://blog.livedoor.jp/nanakailua/archives/50995929.html 「動物の群れはあくまでも同種間のものであり、
もし仮に犬だけが特別に異種間でも群れのようなものを作るとしても、
その形態やそこにおける行動は、
血縁関係からなる本来的な群れとは異なるものと考えられる。
そして実際、これまでに観察・研究されているところでは、
家庭で飼育されている犬同士の間には、
固定的な上下関係は希薄であるということがわかっている。
家庭に暮らすふつうの犬には、犬のリーダーもヒトのリーダーもいないのである。」
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ボランティアさんや動物関係の人は、いろんな道筋をたどって
現在動物に関わっており、その背景や姿勢や、時には思想も様々です。
私は猫と暮らす前は、虐待問題や差別問題等々
動物とは直接関わらない分野に首を突っ込んでましたが、
子供や女性(もちろん男性も含む)への暴力・虐待・差別と、
ミラン式の躾は、まったく地続きだとしかいいようがありません。
それに気づかない人はまだたくさんいます。
ほとんどが気づいていませんし、
そんなこと考えなくてもいいと思っている人もいるでしょう。
いいトレーナーもそれほど多いとは思えません。
子供を叩いても躾と言うのと同じです。
犬を蹴るのもミラン式躾の一環です。
そしてそれを賞賛する飼い主達。
叩いてあげた方がいいと思っている人たち。
暴力的でない方法を探そうとしない人たち。
もっと犬に優しい方法があると知っても
それでも暴力的な方法を選ぶ人たち。
グラさんのブログに【トレーニングの背後にある理念に着目しよう】
http://blog.livedoor.jp/nanakailua/archives/51273825.htmlという記事がありますが、理念がありそうでない人(トレーナー)が多いため
こういった矛盾が生まれるのでしょうね。
いろんなトレーナーのやり方をミックスして、
「いいとこ取り」をしたつもりのことが多いですが
一貫性がなく、無自覚に飼い主と犬を混乱させています。
「ペット」という言葉を使いたくない、自分は動物を愛している、という人でも
躾として叩くのは許される、と思っている人もいます。
叩くなんてひどいことはしなくても、
犬にいつまでも「マテ」てをさせて喜んだり満足する人もいます。
子供に、いや大人の自分でも、食べ物を目の前に出されて
食べるな、マテと言われたら不愉快じゃないでしょうか。
屈辱的ですよ。食べてはいけないなら出すなと。
飼い主が、あるいは親が、友達が、何か用事をしている間は
ただひたすらじっとマテないといけないなんて
そんなこと自体、非常にストレスではないでしょうか。
なぜ犬には要求するのでしょう。
猫や他の動物に要求するでしょうか?
なんのために犬に要求するのでしょうか?
イイコといわれるため?
いい飼い主と思われるため?
自分のコントロール力を誇示するため?
キョウダイや友達と違って、もし自分だけ
命令に従うことを要求されたらイヤではないでしょうか?
常々、躾、芸やパフォーマンス、そしてゲーム等が
ごちゃ混ぜ状態で「躾」と考えてる人が多いなと思っていますが
犬が人間と暮らす上で大事なのはなんでしょうか。
グラさんはこう書いています。
【オスワリよりも生活スキル】
http://blog.livedoor.jp/nanakailua/archives/51266728.html「オスワリ・フセは、トレーナーが教えるようなことではなく、
犬が勝手にすることであり、飼い主が命令してさせることではない。」
【オスワリの前にすべきこと】
http://blog.livedoor.jp/nanakailua/archives/51186904.html 「人間が手でさわったり、リードでつるしたりなどしなくても、
何もつけていない状態でも、
犬が自発的に好ましい行動をとれるようにするのが「しつけ」である。」
昔の野良犬がウロウロしている時代を知らない人、
TVや雑誌の犬しか知らない人は分かりにくいかもしれませんが、
犬達は好きなようにブラブラして暮らしていました。
TVに映る田舎やのんびりした途上国の人々の暮らしの中に
雑然と混じる犬達がちょうど近い感じです。
首輪もないし、リードやハーネスもない。
きちんとした躾もない。
でもたいていみんな、落ち着いてブラブラしています。
躾でがんじがらめで問題行動の多い日本と違いますね。
雑誌「ねこのきもち」でも躾についての記事がありましたが、
(2011 MAY vol.72 ダメの上手な伝え方)
P47 監修:荒田明香先生
「声と音でダメが伝わらない場合は、前もって環境を整えておく必要があります」
…と書かれていました。
なぜ最初に環境を整えないのでしょうか。
先生と言われる人でさえ、こんなレベルかと非常にがっかりします。
人間の都合ばかり考え、
動物を信頼していなかったり、擬人化したりのバランスが
非常に悪いことが多いと感じます。
信頼していいところで信頼できない
(匂いかぎをしていたら少し待ってあげればいいのに、
それはダメとすぐにやめさせるなど)、
擬人化すべきではない場面で擬人化する
(犬に馬鹿にされるなど)。
どうしてこんな状態になってしまったんでしょう。
動物が遠い存在になったことや飼育環境、
おかしな躾、リーダー論、都市化、西洋化など背景はいろいろ考えられますが、
寛容で忍耐強い、優しい犬たちが本当に気の毒です。
グラさんのブログのコメント欄を読んでいると
本当に犬のことを考えている飼い主さんたちの方が
トレーナーや獣医さんより行動も理解も早いです。
ニコニコワンコが増えますように。
みんなに良いご縁がありますように!【京都発:通路猫たちの里親様・預かり様募集中】
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